なぜ石ではなく樹木なのか

ヨーロッパは「石の文化」であるといわれます。ことに石版や石碑、石柱の類は「なにかを遺すため」につくられ、あるいは築かれてきました。長いものは数百年から数千年の時を悠然と超えて、その姿をほぼ変えることなく存在しています。
誰それがどういう偉業を為したか、いつからいつまで生きたのか、そんなことが綴られています。日本でもたとえば先祖を祀ったお墓はそうした類の記録装置です。
4年前の夏の日に、「200年先の世界にインパクトを与えるにはどうしたらいいか必死に考えろ」とおっしゃる、ある高名なアメリカの大学の先生にお目にかかる機会がありました。
「樹木は植えてもいつか枯れる。関わった人間はやがて必ず死に絶え、そのこと自体が忘れ去られてしまうかもしれない。例えばなぜ形を変えずに残る石ではなく、樹木なのか。君たちのやっていることはfragile(脆弱)だ。アイディアはいいが、よりconcrete(確実な)方法で200年後の世界にアプローチする方法を見つけなさい。」
なぜ樹木なのか。樹木は生き物ですから、確かにある面で脆弱です。一方で、目に見えて変化します。背丈が伸び、花をつけ、葉を実らせ、またその色を変える。その姿は経た年月と季節の移ろいによって刻々と変わっていきます。
土地と人びとの姿もまた変わっていきます。だからこそ人びとはその隣で自らもまた成長し変化していく樹木に各々の想いを、記憶を投影することができるのです。
ある記憶を、石という物質的に「確実」だけれどもスタティックな媒体に刻んで遺すのではなく、樹木という「脆弱」だけれども変化する媒体に投影しながら自分たちもまた共に現在進行形で移ろっていく。
そうしてつくられていく「風景」とは、まさに人びとがその土地で生きていくことそのものなのかもしれない。そんなふうに思うようになりました。必死で考え抜いて、そして実行することを諭してくださった先生には感謝の言葉もありません。
私たちは人びとと共に「風景」をつくり、それを記録し続ける。
簡単ではありませんが、とてもシンプルで確実な方法です。一人の人間はやがて死に、一本の樹木もやがて必ず枯れ朽ちますが、つくられた「風景」はなくなることはなく、記録もまたその「風景」を映し続けます。
そんなレンズを通してプロジェクトを見ていただくと、ちょっと面白いかなと思います。