20年後に紡がれる桜と息子の物語

「いや、いや、久しぶりですね~」

沼倉さんと再会したのは東北の桜が咲き始めた4月上旬の暖かい週末であった。場所は、石巻市の牡鹿半島にある十八成浜(くぐなりはま)。

3年前、綺麗な砂浜を見下ろすこの地区の神社境内に、地域の人びとと桜onプロジェクトが協力してエドヒガンザクラを植えたのが、この土地とのご縁をいただくきっかけとなった。ちなみにこの桜は、福島県矢祭町にある樹齢500年の「戸津辺の桜」の子どもたちである。実生の苗を丁寧に育てていただいたものが、この浜に届けられた。

「今回は、お子さんも一緒?」」

と沼倉さんに尋ねられ、返事と共にその理由を答えると、

「お子さんと桜が同い年かぁ、それはいいね~、大谷川の冨士男さんのところの桜も咲き始めているよ。」

と笑顔で答えてくれた。ただ鹿の食害も酷いことも教えてくれた。この地区は野生の鹿が多く生息し、植木や畑の野菜はすぐに鹿の食害にあってしまうほど、日々のメンテナンスが大変だという。

沼倉さんと再会を誓って、今度は大谷川浜の桜を見に車を走らせた。
20分後、現地に到着すると、一部ではあったが満開に咲いている桜が目に入ってきた。

4年前(2012年3月)、このプロジェクトのツアー参加者として、桜の植樹をしたのが私と大谷川浜の人びととの最初の出会いであった。当時、浜の人の大半は高台の仮設住宅に移転していたが、地域外に避難を続けていた人も多くいて、隣近所で長年暮らしてきた人びとが離れ離れになってしまうのでは、という懸念があった。そこで、地域のリーダーであった木村冨士男さんが「土地を離れざるを得なかった人も、年に一度でも戻ってきて昔のようにみんなで集まれる場になれば」と願って、自宅の裏山に桜の森を作り、自分は桜守として、その隣に住むことを決めていた。

「はるばる遠いところからありがとね~。」

富士男さんの奥様が出迎えてくれた。聞くと冨士男さんは急な用事で出かけてしまい留守だったが、「家さぁ上がってお茶っこしてけ~」と笑顔で奥様が声を掛けてくれた。お茶のつもりが、採りたての海鞘(ほや)や野菜など次から次へと美味しい料理をご馳走になり、まるで田舎に帰省した家族のようにもてなしをしてくれた。

震災当時を振り返りながら、津波で家も仕事もすべて失ったが、こうして70歳半ばになっても漁の手伝いをして元気で暮らせることが幸せだと話してくれた。

時折4歳になる息子を見ては、「桜の季節に限らず、いつでも遊びに来ていいからね~」と笑顔で話しかけ、「高校生になれば一人で来れるだっじゃ」と未来の話を楽しそうに語る。辛い経験をしてきたにも関わらず、前を向いて生きていく東北人の温かく、力強い人柄を肌で感じる。

4年前、少しでもお手伝いできればと思い参加したプロジェクトのツアーだったが、今となれば自分がこの桜のお陰で救われている。この桜を介した牡鹿半島の人々との関係と息子の成長は同じ時を刻み前へ進み、常に未来に向かって物語は綴られる。

5年後、10年後、15年後と時間が経過すると震災に関する記憶が薄れつつも、一方でそれと交差するかのように桜と共に紡がれるこの土地との物語が深みを増していく。そんなことを帰り道の三陸の海を見ながら感じた。

16年後、牡鹿半島の桜の下で二十歳を迎えた息子と地元の方と一緒に酒を交わすことができたらと思うと、新しい物語の想像は広がるばかりである。

羽永 太朗

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