TEDの奥の欲望

プレゼンテーションブームとでも言うべきでしょうか?
さてはて、そもそも日本人は他人の話を聞くのが大好きな人種でして、例えば“落語”や“浄瑠璃”はたまた“能”や“歌舞伎”などというものが当代まで脈々とその人気を繋いできているのも、元来のそんな性質のせいだととらえるべきなのでしょうか?

と、思ってしまうほど、昨今のプレゼンテーションイベントの多いことに驚きを隠せずにいる今日この頃です。

なかでもTED(http://www.ted.com/)の広がりには目を見張るものがあります。アメリカ発信のイベントであるにもかかわらず、2005年以降、世界中とりわけ最近では日本各地で数多く開催されていて、それらを編集したテレビ番組をNHKが『スーパープレゼンテーション』と銘打って放送を開始、書店に並ぶ書籍にもプレゼンテーションをトピックにしたものがあふれている今日この頃です。

 

かのSteve Jobsのスタンフォード大学での基調講演などはyoutube上でも1000万回以上の再生回数を誇り、日本でもApple社の製品と彼の死と共に、その再生回数と強い印象は莫大な広がりでもって記憶に刻み込まれています。

そんなプレゼンテーションブームの日常に浸っていると、どうしても先の問いが頭の中を浮遊してしまうのは僕だけでしょうか?
はたしてぼくら日本人はそこに何を見出して、何を楽しんでいるのでしょうか?
もちろん、エンターテイメントとしてのSHOWの性質や、センセーショナルに新しい知識や情報やアイデアを他人のプレゼンテーションから得られるという知的好奇心もあると思います。でも、それだけではないようにも感じています。

元 来日本人は、確かに他人の物語を見聞きして楽しむ能力には長けているのかもしれません、噂話も好きな国民だとも思います。それと表裏一体で、【自分の物語 をいざ語ること】になると急に赤面して不器用になってしまう国民性だと理解してきた節が大きくあります。きっとこれは少数派だとはならないでしょう。そん な国民が改めてプレゼンテーションに湧いているわけです。

でも、だからこそ、と個人的に僕は思います。
他人の物語を楽しむ文化を持っている日本は、実は自分の物語を語ることに不得手なのではなくて、どこかで『自分も語れたならいいだろうなぁ~』という熱い欲望にも似た気持ちを“秘めて”きていたのだと。
だからこそ、他人の物語を文化として楽しみ、一人心のうちでは、自分事として現実にはそんなふうにはできないその気持との落差を、“秘め事の魅力”として享受することを楽しみとしてきたのではないかと。

現代、ここにきてTEDに 始まるプレゼンテーションに、今を生きる日本人はその【語りたい自分の物語】と同時に、『自分もこんなふうに語りだせる物語を持ちたい』、『こんなふうに エキサイティングに素敵に語り出したい』、つまりは『もっと人に語りだせる生き方を生きたい』というかつては“秘め事”としてきた媚薬を、“リアルな欲 求”として表出させることが出来てきた結果が、今日の日本でのプレゼンテーションブームが起こりつつある大きな要因なのではないかとも思うのです。

だ とすれば、誰もが【語りたい自分の物語への欲求】に目を向け、はばかることなくその欲求に正直になることができたなら、このプレゼンテーションブームを一 過の流行で終わらせることなく、日本の未来の文化として成立させられる日もいつか訪れるのではないかと心待ちにしてしまう。

これからの日本人が、この【自分も語り出したい】という欲望を、古からの秘め事という名の文化を乗り越えて、どれほど、真摯に素直に打ち明けられるかには、“単なる流行のパワー”だけでは越えられないそびえ立つ壁が在る気も確かにするのだが・・・・。

じゃあ、どうやったらその壁を越え続けていけるのでしょうか?欲望に素直に【自分も自身の物語を語りだせる】のでしょうか?それともそれは越えられない壁なのでしょうか?

僕は超えられる壁だと思っています。少し話が硬くなりましたが、そのあたりのストーリーについては次回、あるひとりの登場人物に登場してもらって綴ってみたいと思います。

ただ、なにはともあれ、そのそびえ立つ壁の大きさも知覚したうえで、自身の物語の楽しみ方と活かし方を、独自に体現でき武器にできる国民でありたいと、それが誘発するあらゆる可能性を心底あらためて思う今日この頃です。