大雪の中での出会い

2011年3月11日。その日以来気仙沼に起きた事、生きる人、失ったものを、過酷な状況の中でも新聞として発信し続けた新聞社が気仙沼にもある。

三陸新報。僕らがこの新聞社に出会った日は今年はじまって以来の大雪になった。気仙沼市のやや高台にある社から見える空は、あの日気仙沼市街が燃える炎で赤く染まっていたという。多くの記者が市街地に取材にでていていた午後2時46分、あの地震が起きた。専務の渡辺眞紀さ んは必死に社員や記者の安否確認に奔走した。連絡が取れない記者もどうか生きていてくれる事を願いながら。と同時に、この事態と状況を伝える為の翌朝の新聞発刊のことが頭をよぎった。

一階にある応接室に皆で避難しながら、印刷の担当者や社員たちと熟慮を重ねた結果、最終判断を社長でもあり実の姉でもある浅倉眞理さんに判断を仰いだ。浅倉さんは一言『とにかく、新聞は出すよ!!』と答えた。その揺るぎなき信念に渡辺は震えた。この瞬間、『出し続ける』ことが 決まり、社に留まっていた社員全員で車のバッテリーから電源を取り、輪転機の変わりにプリンターで新聞を作った。必死に作った。

翌朝3月12日の三陸新報 は社員の手で町に配られた。三陸新報社の使命が、気仙沼の炎に抗するように赤く燃えていた。石巻だけでなく、ここ気仙沼にも雄たる新聞社を見つけた。無数の物語と共に。