『東北まほろば「根」の歌を聴く』

あの桜たちは今も生き続けている。

15年前、3月11日。

「膨大な物語が消失した、いつかまた物語が必要になる」との想いから仲間と一緒に15年前の5月から東北太平洋岸を歩きはじめた。地震と津波が全てを壊した風景と鼻腔の奥に焼きつく匂いをいまでも覚えている。様々な土地と人々に出会った。

人々の心と物語に触れることができた土地に「桜」を植え始めた。その為のNPO法人も作った。「物語」を紡ぎ続ける為のNPO桜onプロジェクトを。

「桜」は未来での物語と記憶の喚起装置になると信じていた。

そして、今も東北の各地で「その桜たち」は生き続けている。出会った人々の物語も生き続けている。 春が来れば桜は静かに花を咲かせ、人間の背丈をはるかに超え、地域の人々に愛でられている。既知の人々が居なくなっても桜は生き続けてまた誰かの物語の一部にきっとなる。

僕は今思うことがある。

桜を思いながら、花を待ちながら、時間や人生を思いながら、その見えない「根」について。

「根を張ること」について。

東北の言葉には独特の訛りがある。それは地域によって異なる多様な訛りだ。

ただ、東北の多様な言葉には共通するものを感じている。それは、音としての決して派手ではない静かな抑揚と節である。東国の武人のような力強い響きでもある。

遠い昔、近畿大和の勢力が進行するよりももっと昔から、みちのく・東北・東国には狩猟採取をし、移動する自由な交易と暮らしがあった。8世紀まで律令国家の制度も及ばないほどの独自の暮らしがあった。馬が駆け抜け、牧が点在する風景を想う。独自の豊かな地だったのだと思う。

もちろん、学者でもない僕が、言葉の訛りや暮らしの痕跡から、東北の民を規定するつもりはなく、これはあくまで僕の「想い方」の話である。

ただ、東北の各地に育つ桜と物語を想う時、 東北にはこの言葉の訛りに感じるのと同様の静かに力強く「根をはる土壌」がある気がするのだ。

そんなことを今朝は想っている。

目には見えねども桜の根は、確実に静かに、じっとりと、今日も根を大地に張り続けている。地上に見える桜の樹冠(枝の広がり)の2倍3倍もの大きさで、土中に根を広げている。

東北を想う時、僕はその「根」が張る時の通奏低音のような音を聴くような気持ちになる。

東北の民に宿る気質のようものを、僕は今日を生きる桜の根に重ねている。

同時に、「僕は今日も根を張れているのだろうか、生きるという点において」という感情が湧いてくる。

それは定住とか職種とか立場とか環境とかそんなことではなく、「君は今日も心の根を張り続けられているのか〜」という東北の桜たちからの歌声が聴こえてくる。

東北の桜花が顔を見せるのはまだもう少し先だ。 桜の「根」の歌声を聴くように僕は今日を過ごし、そして生きている。

「君は今日も根を張り続けられているか〜♪」