なぜ石ではなく、樹木なのか

12年前に三陸の町や村を歩いて

「あの、桜をですね…」

と会う人会う人に話をしていた頃のこと。

「家も人も全部流されて何が桜だ!テレビ持って来い!!」

と言われてケンカをした夜がありました。不安の極みにサクラ。そりゃそうだなと今でも思います。


ご縁があって全国から島や村を訪れ、初めて会う仲間や土地の人たちとともに語り合い、桜を植えた人たちが口々に熱っぽく語っていました。


「日々仕事をし、生活をする中で、先行きへの不安やストレスを感じることが多かったけれど、ここに来て、土地の皆さんと語り合って桜を植えて、元気になりました。何年か先の未来に、家族を連れて大きくなった桜を見に来たいです」


その時、人々が植えた桜は一年生。か細く小さな小さな苗木。集まった人たちが日々の日常で抱える不安や、土地の人たちが震災以降ずっと直面してきた不確実で遅々として進まない復興を、その脆弱な体に映したかのように弱々しく佇んでいました。


一方で、その場にいた多くの人が、近い将来に大きく力強く育って人々を見下ろして咲き誇っているであろう桜を思い描いて心にチカラを得たと話していました。お互いにまた会おうと未だ見ぬ大きな木に向かって感じていたものは、不安の沼の中に見出した、一縷の希望のようなものだったのだろうと思います。


植物は、生きている分だけ、死んでしまうという意味では石よりも脆弱です。でも、生きていれば、人の一生を遥かに超えて、またそうして成長していくからこそ、自らも変わりゆく人の不安な気持ちや想いを重ねながら、一緒に育っていくのです。

その意味で、遺っていくものは目の前の植物そのもの、というよりは、私たちが植物に投影したかつての想いが、私たちの中に折り重なって遺っていくということなんじゃないか。そんなことを12年経ったいま思ったりもします。


未来に物語を、といっていながら、実は私たちの桜は、今を生きる私たちにこそ、意味のあるものではないか、と。